挨拶                おはようございます、ありがとう、すみません、という最も単純な言葉である。私たちがよりよく暮らしていく上で挨拶はなくてならない潤滑油みたいなものです。昔お師家様が雲水の修行度合いを試すことを挨拶といいました。ちょっと声をかけてみて、その返答で悟りの度合いを測った。ということから転じて今日では親愛の言葉をかけあうことにかわってきた。
愛敬   もともとは如來様、菩薩様の柔和で慈しみをたたえた容貌を表す言葉でしたが広辞苑などでは、(愛嬌)となっているようです。女性や子供などが、にこやかでかわいらしいこと。また、こっけいでほほえましいこと。とあります。「男は度胸、女は愛嬌、坊主はお経」
阿吽 阿吽の呼吸がピッタリでした。等と使われます。最初と最後。「阿」を万物の根源、「吽」を一切が帰着することろとしています。赤ちゃんとお母さんの会話、赤ちゃん、「アッアア、、、」母親、「ウッウウ」これはまさしく阿吽の呼吸ですね。
愛語 布施・利行・同時・とともに菩薩の四摂法のひとつです。現、大本山總持寺貫首板橋興宗禅師様はよく色紙に和顔愛語としるされますが、道元禅師は正法眼蔵のなかで「愛語というは衆生を見るにまず慈愛の心を起こし顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり」ともうしております。つまり自分のことは一切考えないで只、相手のことだけをおもいやるそんな言葉が愛語だというのです。
あきらめる 買ったばかりのPCに自分の不注意で水を溢してしまった、精密機械だから全部パぁー「あきらめるしかない!」あきらめるという語はこのように消極的、悪いことに多く使われますが、本来はもっと積極的なプラス思考の意味なのです。物の道理をしっかりととらえ、原因、結果をあきらかにすること。これが仏教的なあきらめるです。生をあきらめ死をあきらめるは佛家一大事の因縁なり  です。
足を洗う やくざな世界から足をあらい堅気になってまっとうな暮らしをする。このような使い方をしますが、本来は托鉢僧が素足で托鉢をして歩き、お寺に戻ると足を洗ってから本堂にあがる。このことから来た言葉です。托鉢している世間を迷いの世界とし、お寺の中を救いの世界とみたてたものです。
阿鼻叫喚 これも広辞苑によりますが@阿鼻地獄の苦に堪えられないで泣き叫ぶさまとあります。あまたある地獄のなかで阿鼻地獄と叫喚地獄はワースト2です。痛さ熱さに声もでず煮えたぎる銅の中に沈められる。そのすさまじさは言葉では言い表せませんね。
あまのじゃく 天邪鬼とは経典に見られる想像上の動物で、なんでも人の意に逆らってばかりいるという子鬼です。人の邪魔ばかりしているので毘沙門天に踏みつけられている姿が有名です。毘沙門天にこらしめられているというわけです。「あの人はあまのじゃくだ」ということは、ひねくれものということでしょうか。人が右といえば左、左といえば右、何事もひとのいうことにさからってばかりいる。まわりにもおりますね。そのようなひと。
ありがとう あらゆる仏教語のなかで一番ポピュラーかつすばらしい言葉です。「有難う」は有難しです。膨大な生き物がいるなかで人として生まれ来たったこと自体がもうすでに有難しなのです。だからこそ感謝の念が生じるのでしょう。ありがたしありがたやありがとう
行脚 あんぎゃと読みます。脚で行くわけですから雲水と同じような意味です。向学心にもえ優れた指導者を求めて行く雲や流れる水のごとく、脚にまかせて諸国を遍歴することをいいます。お釈迦様の時代の僧たちは雨季だけ一ヶ所にとどまって修行しましたが他の季節には歩き回って修行、布教をしていた。