仏教語5

  一心不乱
   (いっしんふらん)
一心不乱になって勉強をした、とか一つことに熱中しているさまをいいます。元々は念仏の語録に「我体を捨て南無弥陀仏と一体なるを一心不乱というなり」とあるように仏を念じて心が散乱動揺しないことを指します。米沢の名君上杉鷹山の歌に「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」という一首があります。何かやろうと思ったらそれを一心不乱にやる、そしてやり遂げる、そうゆうことがだいじな事だと思います。
 禁足 (きんそく) 禁足中というと、修行道場に上山したら最初の100日間は禁足となります。外出禁止とか自宅待機とか言うような意味ですが本来の意味はさらに「身をつつしみ修行すること」がくわわります。
  空  (くう) 物事はすべて因縁によって生滅するもので、実体などないということを空と表現します。例えば水と氷と水蒸気はそれぞれ液体、固体、気体にわかれますが、同じものが変化した姿です。ではどれが実体でしょうか?形あるものが実体なら氷ということになりますが、どうやら違いそうですし、水、氷、水蒸気と変わり行くものには実体がないのです。それぞれが仮の姿であってものごとの実体は空ということになります。
  工 夫  (くふう) iいろいろ考えてよい方法を得ようとすること。禅宗から来た言葉です。師家から公案という問題を与えられた修行者があれやこれやと思い巡らすことを工夫弁道といった。そこから転じて、手段、方法を考えることの意味になっていったようです。
  玄  人 (くろうと)
  素  人 (しろうと)
語源は黒が玄人に白が素人に変化したもののようです。では黒とは白とは何を指していたんでしょうか?昔の中国では、坊さんは基本的に黒い衣を着ていましたので玄人と呼ばれ、これに対して一般の人白衣の人と呼ばれていましたつまり、素人とは特別の身分や状態でない人のことなのです。この服装による区別がいまでも得度式という儀式の中に取り入れられています。得度を受ける人はまず白衣で出て行き、得度を受けると初めて黒衣を身に着けます。僧は仏道の専門家ですので、いつのまにか玄人が専門家、、というふうになったものと考えられます。
   具足  (ぐそく) 広辞苑によりますと、@十分に備わっていること。A伴い同行すること。または引き連れる家来。C強飯(こわめし)に添える盛る物。とあります。細かくいえば道具がそろう事備わることを具足といいます。修行僧がもっていた三種の衣類、食事や托鉢用に使う鉢、座るときに使う座具、この三つがそろうことを具足といった。
   愚痴  (ぐち) これも広辞苑よりますが「理非の区別がつかないおろかさ。」と出ていました。愚痴とはお釈迦様の説かれた,三毒の一つです。ちなみにもう二つは貪欲と瞋恚(しんい)で、やたら物をほしがったり、うらみいかることです。
   結集 (けっしゅう) この旗の元に結集せよ!とかいいますが大勢の人が同じ考えの元に集まることをいいます。がこの語源も仏教なのです。昔、お釈迦様が亡くなられた後のこと、お釈迦様の教えがどんなものであったのか統一しておこうという動きが起こり、分散していた仏弟子たちが集まって、それぞれが記憶していた教えを合諷しあいました。これを結集の第一としております。
  決定 (けってい) 経典の中にはケツジョウという読み方ででてまいります。あることが定まって動かない、そういうことをあらわしています。すなわち仏の教えを固く信じて疑わないことをいい、安心決定することを理想としています。
   見聞 (けんぶん) 見聞とはその字のとおり見たり聞いたりするということです。いや、見たり聞いたりだけではありません。人間には眼耳鼻舌身という五感があり、ここから色声香味触という情報を取り入れているわけですから見聞をもってこれらの代表としてしているわけです。
  下品 (げひん) あの人は下品だとか上品だ!とか品がある、とかこうゆう使われ方をします。仏教では(ホン)と発音します。回向の中にも上品の華を開くという言葉が出てきます。お釈迦様が人を救う手段として人を三つに分けたことから起きたことばです。
   玄関 (げんかん) 広辞苑でも禅寺の方丈に入る門とあります。昔、だるま様から中国へ禅が伝えられた時、中国人は道教の教えに照らして、禅を玄と訳しました。だから玄関の玄は禅であり、関は関所の関です。玄関ははじめ、禅寺だけに作られていたのですが格好がいいのでみんなまねをして作るようになったといいます。とにかく玄関には「悟りに至る関所」という意味があります。
 過去、現在、未来
  (かこ、げんざい、みらい)
いわゆる三世といいます。仏教ではいろいろな作用を@過ぎ去ったことA現にあることB未だ来ぬことの三つに分けています。
   講師 (こうし) 教授や講師というと大学の先生ですが元々はお授戒会などで仏様の戒めは教授によって授けられ講師によってこうぜられていったのです。学問として仏教を講じられる場所が講堂となります。
   向上 (こうじょう) 上に向かって進むこと、と辞書には出ています。終わりなき精進ともいいます。この向上心というものが人間を豊かにならしめた最大の要因ではないでしょうか。もともと字の上手な人が練習を重ねて努力すれば大きくますます伸びることはもちろんである。それでは字の下手な人は望みはないんだろうか?下手な人は下手なりに精一杯まごころこめて書いているうちに上手い人とはまた違った個性ある味わい深い字を書くようになる。このようにすべては向上心という心の働きによっていとなまれるものです。
   降伏 (こうふく) 降伏は、一般にはコウフクと読み、まいった!と相手に白旗をあげるマイナスの意味で使われていますが、経文の中に「降伏一切大魔最勝成就」【ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ】というものがあります。悪魔をやっつけるというプラスの意味に使われます。悪魔は降伏されて改心し守り神になることもあります。将棋で取った相手の駒が今度は自分の駒として力を発揮してくれるのとおなじように、悪い流れの因縁を変え、良いほうに向かわせる為の祈祷文の【こうぶく】からきたことばです。
   言語道断
   (ごんごどうだん)
言語道断とんでもないことだ!と憤慨したときなどに使われていますが言語道断とは、文字どうり言語などで表現する道が断たれることです。つまりは言葉では表現できないものを指す言葉です。道元禅師も禅の奥底は不立文字でという立場をとっています。悟りや真理、感動などはあまりにに崇高すぎて言語などでは表現できない程であるということです。それなのに悪くていい意味には使われていません。本来はもっといい使い方があってもいいような気がいたします。
  根性 (こんじょう) あいつは根性がある!とか根性が曲がってるとかいわれる根性も仏教に関係した語です。
根性とは仏様の教えを受けるものとしてそなえている性質や資質をいいます。
  金輪際
   (こんりんざい)
これも広辞苑によりますが @地層の最下底の所。無限に深いという、A物事の極限、Bそこのそこまで
、とことんまで。断じて とあります。仏教の世界観の一つにこの大地は風輪、水輪、金輪、の三輪に支えら
れているといいます。際とは極まるところという意味ですからつまり大地のはてということになりす。
「金輪際〜はしません」とは大地の底までいってもということで、強い意志を確認することばです。