仏教語
大黒柱 
(だいこくばしら)
昔は一家を支える父親の事を我が家の大黒柱なんていったものです。家を建てるとき、最初に立てる太い柱を大黒柱といい、この柱によって家の位置が定まったのです。そしてこの中心的な柱に面して台所が作られ、そこには台所の神様、「大黒天」が奉られていたので「大黒柱」と呼ばれるようになったのです。今ではお寺の奥さんのことを大黒さんとよんでいます。
薬石  (やくせき) 「薬石効なく・・・・」といえばいろいろ治療を尽くしてみたが、その効果なく・・・という事。漢方医学で鍼や灸など総称した医薬と説明してますが仏教では薬石とは夕飯のことです。仏教では基本的に夕方は食事を摂らないんですが、薬として食事を戴きます。
醍醐味(だいごみ) ビールの宣伝などでよく聞く「醍醐味」という言葉。そもそもこれってどんな味でしょうか。奈良、平安時代から牛乳を飲んだり乳製品を食べていたそうです。醍醐とはつまりバター、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品のことなのです。仏教では仏の最高の教えをたとえる言葉ですが、昔は乳製品には乳味、生疎味、熟味、酪味、醍醐味の五味があるといわれ、醍醐味は五味のなかでも最高の味という意味でした。最近は味だけでなく「何事にも変えられない楽しさ、本当の面白さ」という表現にも使われています。
畜生  (ちくしょう) 畜生とは愚鈍で世の人に養われるもの、という意味で、牛、馬、などを指します。いわゆる家畜ということになりましょうか。日常生活の中で使われる畜生は、あまり良い意味では使われません。あん畜生、こん畜生、畜生め!等と相手を侮蔑する時に用いられますが、実際経文の中でも六道のうち人間より下、それも下から三番目に位置する世界、ここに住むものを指します。
大衆 (だいしゅう) 一般大衆、大衆小説、大衆食堂、等大衆という言葉を使った熟語は沢山あります。仏教ではダイシュ、とかダイシュウと読み特定の僧とその他の僧を区別する為の語でした。禅宗では役付きでない一般の僧をダイシュとよんでいます。つまり、ある師僧の元に集まる多くの修行中の仲間が大衆です。
大事 (だいじ) 「大事にしまっておく」「ではお大事に」「それは一大事」など大事の登場する会話はいくらでもありますが、大事とは一体なんでしょう。禅宗では師匠が弟子に印可を与えると、その証として大事となずけられるものを渡します。この中味こそ大事そのものですが、それは仏法の根本精神を図に示したものです。
知事 (ちじ) 千葉県には千葉県知事、東京には都知事という具合に各都道府県に知事さんがおり、それぞれの地方で政治を担っています。がもともと知事とはどういう人を指していたのでしょう。知は司る意味、事は諸事務のことで、禅寺では寺院運営と教育を司る僧達をこうよんでいます。都寺(つうす)監寺(かんす)副寺(ふうす)維那(いのう)典座(てんぞ)直歳(しっすい)この六人が知事とよばれます。都寺と監寺は監督と助監督、副寺は会計主任、維那は修行僧 の教育係り、典座は台所主任、直歳は建物の営繕を担当します。これを県の知事におきかえれば、県知事は県民を守り、教育しいろいろな世話をしなくてはならないたいへんな仕事です。なにしろ一人で六つも兼ねるわけですから。
長老 (ちょうろう) 「あの人は芸能界の長老だ。」とか「○○党の長老が・・」などと使われています。が本来の仏教語ではどうでしょうか。仏教では坊さんに「なって何年も修行を積み続けた徳の高い人を長老さまとよんでおります。禅宗の場合は特に立身をして出世するまでの僧を長老と申します。立身とは、いわゆる小僧さんの時期を過ぎて、一人前になる為の儀式をうけることをいいます。具体的には法戦式に臨む首座和尚さんのことを長老さんといいます。
提唱 (ていしょう) どこぞの政治家がナントカ会議の提唱をした、というようなニュースはよく耳にいますが、「高僧の提唱がありました、」などというのは全然ニュースになりませんネ。本家本元の提唱はさっぱり報道価値がないようです。提唱とは宗旨の大要を提起してこれを演法することで、禅宗では特に祖録を講ずる意味に使われています。坐禅指導とともにお師家さんの任務です。
徹底 (てってい) 徹底の文字をよく見ると底に徹るとあります。インド、ガンジス川の昔、そこにウサギと馬と象がおりました。この大河を渡るのに兎は短い足で水面をひっかくようにして泳ぎました。馬はある深さまで足をのばし水になじむようにして泳いで渡りました。象はしっかりと川底に足をつけ、全身を水にもぐして鼻だけを上に出しのっしのっしと渡りました。同じ川を渡るのにこの三通りの渡り方があるという話ですが、象の渡り方を徹底といいます。兎や馬のような渡り方では何か心もとない、象のように徹底しているからこそ安心し自信が持てます。
内証 (ないしょ) 内証の話、それ何?「ナイショ」内証と秘密は同じようですが全然違います。人に語るでもなく聞くでもないという点では同じですが、内証とは自内証という意味です。つまり自己の心のうちで真理を悟ることでめいめいの悟りとは心の中にしまっておけばいいのであって、人にひけらかすものではありません。この意味が転じて俗に内輪のこと、家の中の暮らし向きなども内証というようになりました。
人間 (にんげん) 世の中には生きとしいけるものが非常に多くおり、我々の目では見れない世界にまで枠を広げれば、その数は想像もつかないほど膨大なものであるとおもいます。しかもそれら生き物の命は永遠ではなく、生まれてから死んでいくわけですから、命はどれほどあるものかと不思議に思わざるを得ません。仏教では輪廻転生の世界を、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄、の六種に分類しています。人間とは天上に近い所に位する私たちのことです。こうして人間に生まれついていることを当然のことのように考えていますが、他の生物と人間の割合を比べると、人として生まれるということは大変確率のない大変なことだとおもいます。
配役 (はいやく) 一般に配役といえば、ドラマ、映画などで俳優女優に役を割り当てることなのですが、元々は禅寺において、衆僧にそれぞれの担当すべき役位を割り当てることを配役といいます。一定の修行期間を過ごす時や大切な行事を行う前には、この配役式をとりおこなうことが正式となっております。合図の太鼓が鳴ると大衆は衣をきて法堂に集まり、きちんと並んで配役表の朗読を聴きます。自分の名前を呼ばれたら深く頭を下げて承諾の意を表し、その後作法にのっとりお茶をいただきます。