仏教語6

   後生 (ごしょう) 。私たちが生まれて死ぬまでを一生といい、これは今の生だから今生といいます。生まれる以前を前生、未来世のことを後生とか申します。前生は過ぎてしまったことで、どうにもできませんが、今生と後生はまだなんとか出来ます。残された人生をよりよく生きたいものですし、後生ならなおさら良いところでと願いたいものです。後生大事とは、後の世の安楽を大切にということです。
  ご馳走様
   (ごちそううさま)
馳走とは、早く走るとか年月が過ぎ去るとかの意味があるそうです。食事を用意するために材料を求めたり煮炊きをしてかけずりまわることから来た言葉です。五観の偈に「一つには功の多少を計り、彼の来処をはかる」という文句があります。多くのおかげをもちまして今この食事が私の、目の前にある。このおかげを思い、感謝していただきます。ということなのです。
   娯楽  (ごらく) 娯楽番組、道楽息子、安楽死、などと楽という言葉にいろんな意味がありますがお釈迦様に出会って本当の楽を受けること、これが本来の道楽、法楽です。道楽は仏道修行で得た悟りの楽しみをさし、娯楽とは精神的な安らかさを覚えること、です。
  サバを読む
         (よ)
ご飯を頂くときサバを取る習慣というのがあります。サバとは生飯で余分に取り分けられた御飯をいいます。御飯が炊けましたらまず仏前にお供えをし、次に自分たちがいただきますが、その時に盛り分けられた御飯の中から数粒のごはん粒をとりだします。これは今こうして食事ができることを感謝し、自分だけがそれを食べるのではなく鬼神や餓鬼、畜生など飢えに苦しむものにも分け与えようというものです。取り分けられたサバは後で寄せ集めて川になげられて供養します。御飯を作るときにこのサバの量をあらかじめ計算します。これをサバを読むといったのです。最近では自分だけに利益がくるようにサバを読む人がなんとおおいことか。
   三途の川
   (さんずのかわ)
三途の川は、人が死んで冥土へ行く途中で渡る川のことです。この世とあの世のあいだにある川で初七日あたりにこの川岸にたっします。「三途の川も金次第」なんていう俗信もあるくらいです。
   三昧 (ざんまい) 成りきる!ということなのです。読書三昧といえばそのこと意外に心が向かず、読書することに没頭してしまう。一心不乱ということと同意語です。将棋で次の一手を考えているときなどまさに三昧の境地です。対戦相手の顔も隣の騒音も一切耳に入りません。これは心が盤と一体になっているからです。
  三朝 (さんちょう) 一月一日、お正月のことを言います。一年の初めであり、一月の初めでもあり、一日の初めでもある,
一月一日は三つの朝のはじまりでもあります。始まりが三つも重なった年一回の目出度い時ですので、これを山朝といいます。
   懺悔 (さんげ) キリスト教では「ざんげ」と発音してますがもともとは仏教語で、「さんげ」と発音します。観音懺法という法要がありますが、あれは観音様の前で知らず知らずのうちに貯まった罪を悔い清らかにしてもらおうという儀式です。修證義に「前仏懺悔の功徳力よく我を救いて清浄ならしむ」というのがあります。申し訳ありません、ごめんなさい!といってしまいましょう。すっきりするとおもいます。
   四苦八苦
      (しくはっく)
人の一生の苦しみは、生老病死に代表されます。生きていく苦しみ、年老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみ、この四つを四苦といいます。これに愛するものと分かれる苦しみ、憎らしい奴と会う苦しみ、求めても手に入らない苦しみ、感情から生じる苦しみ、を加えて四苦八苦です。しく三十六、はっく七十二を足して百八つが煩悩の数といわれます。
  自然  (しぜん) 経典の中では(じねん)と発音されます。一般につかう自然とおなじいみです。自然とは、物事の本性、真実の姿そのもののあり方のことです。本来の面目とも訳されています。道元禅師は【春は花、夏ホトトギス秋は月冬雪さえて涼しかりけり】と詠まれ良寛様は【形見とて何か残さん春は花、夏ホトトギス秋はもみじ葉】と表現しております。
  子孫  (しそん) 自分の一番身近な子孫は子供、そして孫、ひ孫と代々にわたって血筋を引いて生まれる人々のことです。。逆にさかのぼれば先祖は、親、祖父、祖祖父人の長い流れの上に自分がいる。これってすごいことのように思えませんか!何百何千のうち一人でも欠けると私は存在しないし、私の流れは止まってしまう。
   七転八起
   (ななころびやおき)
達磨さんをイメージしてます。起き上がり小法師の達磨さんの下にはおもりが入れてあって倒れてもすぐ起き上がるように設計されています。達磨大師が七難をもろともせず仏法を伝えたことにあやかった不屈の精神を学びたいものです。
   娑婆  (しゃば) 娑婆とは人間が現実に住んでいるこの世界のことをいいます。この娑婆は四苦八苦の苦しみに満ちた世界でお釈迦様が極楽浄土へいかれるように手をさしのべてくれています。
  舎利 (しゃり) 舎利とは骨身のこと、特に聖者の綺麗な遺骨をいいます。仏舎利はお釈迦様の遺骨です。お寿司やさんでよく上等のお米で炊いた寿司飯のことを舎利ともいいます。小さくてもひときわキラキラしていて大事なものということから御飯のことも舎利というようになったといいます。
   種子 (しゅし) 仏教で種子とは「現に存在する物事の勢力をとどめ、再び事が存在することを可能にする原因」つまりものごとのもとになっているもののことをいいます。道元禅師も【一日の行事これ諸仏の種子なり、諸仏の行事なり】と示されているように、一日一日を精一杯いきることでこの種子を育て、花を咲かせ実をむすばせたいものです。【はきだめにえんど豆咲き 泥池から蓮の花が育つ 人皆に美しき種子あり 明日何がさくか】安積得也詩集より
   修羅場 (しゅらば) 修羅場をかいくぐってきた男、というような表現がある。修羅場とはいうのは、戦乱・闘争の場面を言う。【修羅のちまた】といったような言葉もおなじような意味である。阿修羅といって六道に住むもののひとつです。修羅は解脱が尊いものと知りながら、快楽を求めて怒ってばかりいるのでいたのですが仏法を聞いて善い面をとりもどしたという逸話がのこっています。
    精進  (しょうじん) 懸命に頑張るということにおいては精進と努力は似たような言葉ですが若干の違いがあります。知恵に裏ずけされた努力が精進です。ある学校での話、教室に一匹の蜂が迷い込んできました。さされると大変なので生徒たちは蜂をおいだそうとします、蜂も懸命になって逃げ出そうと必死です。生徒も外に出そうと戸を開いて出やすいようにしてやりましたが蜂は戸の閉まっているところばかりぶつかってなかなか出て行きません、そのうち一人の生徒が蜂を叩き落してしいました。逃げ口があるにもかかわらず、出口がわからず無駄な努力を重ね、しまいにはころされてしましました。このように蜂の頑張りは精進とはいわないのです。知恵を忘れることなく精進したいものです。