仏教語7                  

    出世  (しゅっせ) 日常語で「出世」といえば、世の中に出て立派な地位や身分になることを言います。例えば「営業部長になるなんて、あの人もずいぶん出世したもんだ」というぐあいに使われます。もちろん仏教語で二つの意味があります。@仏が衆生を救うためにこの世に出現することをいいます。サンスクリット語で「出生、出現」をいいこれはお釈迦様がこの世にお出ましになった真意とか言う意味です。A世間的なことを越えているということです。「より高い、より上の」という意味でそれぞれを合成して出世間と訳されています。というわけで本来は僧侶が高い位に昇ったり、大寺院の住職になることだったのですがこれが一般にも広がり、立身出世に代表される現在の「出世」の意味となったのです。
   正念場 (しょうねんば) この冬、ソルトレークオリンピックでは日本代表チームいろいろな場面で何回か正念場を迎えました。我等一人一人の人生にも幾度となくこの正念場があります。正念場とは、正念をすえるべき大切な場面ということです。煩悩から抜け出すために八つの教えがありますがそのうち7番目に正念というのがあります。
正しい思いをして邪念を起さぬことの意味です。
   食堂  (しょくどう) お寺には一つの建物だけでなく、七堂伽藍といいまして7つのお堂があり、庫裏のことをいいます。曹洞宗では庫院といいますが他宗では食堂と呼ぶところがあります。
   書写  (しょしゃ) 文字通りお釈迦様の教えを書き写すことをいいます。
   所詮  (しょせん) 三橋美智也の歌に「所詮かなわぬ縁の恋が〜♪」とか「所詮は別れにゃならない二人〜」という歌詞があります。いいあらわされたもの言う意味で「つまりろところ」「結局」などと同義です。山頭火の詩にこんなものがあります。「所詮、乞食坊主以外の何者でもない・・・魚ゆきて魚の如く、鳥とんで鳥に似たりそれでは二本の足よ、歩けるだけ歩け、行ける所まで行け」山頭火は足を止めたら死しかありませんでした。私たちも自分を考えるとき、自分は所詮自分でしかないということです。
   所得、 所有
     (しょとく、  しゅゆう)
ズバリいえば所得とは参禅学道によって得た仏法の要諦に関する所見のことです。所有とはその所見によって常に有するようになった法力の事を言います。こんな昔話があります。ある貧しい人がひょんなことから大金をてにいれました。でも大金持ちになったその日から、泥棒に盗まれるかもしれないとか、なくしたら大変という不安が始終つきまとうことになったのです。何もない頃はのんびりとくらすことができたのに、今は常に「誰かに狙われている」と考えて今までしたしかった人とさえうまくいかなくなり、この人はとうとうお金を全部川へ捨てたそうです。得しようという心がなくなって初めて分別に執着しない自由な心が得られるのです。
    心眼  (しんがん) 広辞苑では、物事の真相や要点をはっきり見分ける鋭い心の働き。とあります。
  (くう)  真空  (しんくう) 空とはなにもないということで、真空とはそのなかに空気さえないもないからっぽ状態をいいます。とらわれの心一切がないということです。
   信心 (しんじん) 仏の教えを信じて疑わないことです。「鰯の頭も信心から」と申しますが別に鰯を有難いと思っているわけではなくて、鰯の臭さと柊の棘が鬼をおいはらってくれると信じていろ言葉です
    自覚   (じかく)
    不覚   (ふかく)
「自覚が足りない」「不覚をとってしまった」「自覚症状がある」等という言葉があります。自覚とは単に意識の有る無しを言うのではなく、文字通り自ら覚ることをいいます。覚るとは気ずくということでもありますから気がつかないことを不覚という。
   自業自得 (じごうじとく) 業とは、人間が為す行為のことです。善い行いをすればよい結果を、悪い行いをすればわるい結果がその報いとなり、輪廻するというのが仏教の教えです。
    極楽と地獄
    (ごくらく) (じごく)
有名な法話です。ある人が地獄を見に行きました。ちょうど昼飯時でしたので食堂にはいっていきますと、テーブルがずらりとならび、ご馳走が山盛りになっています。豪勢だなァと感心し、さてテーブルの両側に座っている亡者たちを見ると、なんと皆、骨と皮ばかりにやせこけ、目はクボミ、ガツガツしております。さて合図があって食事となりました。よくみると左手は椅子に縛り付けられています。右手にもった大きなスプーン一本で食べるわけです。するとどうでしょう。スプーンが長すぎて口にご馳走が入らないのです。目の前にご馳走が一杯ありながら只スプーンが長いばっかりに食べられない、なるほどこれが地獄の苦しみか、と寒々として地獄をあとにして今度は極楽にいってみたそうです。極楽だからすばらしい宮殿かと思いきや地獄とそんなに変わっていません。やはり食事時にいってみました。右手スプーンで食べるというところまでまったく地獄と同じですが極楽の人たちはさすがです。ご馳走を自分の口に入れるには長すぎるスプーンですが、向かい合った人の口にいれるには丁度いい長さなのです。向かいあった人同士お互いが自分のスプーンにのったご馳走を相手の口に入れてやっておりました。相手を生かすことによって自分も生かされているのです。社会の仕組みは全く同じであっても、そこに住む人の心構えや生活態度如何によって、地獄にも極楽にもなるという教えです。
   邪魔  (じゃま) 「こんなところに置いちゃ邪魔だ」とか「人の恋路の邪魔するな」などと使われていますが元の意味は、お釈迦様が難行苦行して覚るまでのあいだ多くの悪魔が前途を塞いだといいます。悪魔はバラモン僧や美しい娘の姿に化けて修行を妨げたといいます。これらを邪魔といった。
     自由   (じゆう) 古来、使われてきた自由の意味は自らに由って営みをすることであり、身心脱落した悟りの境涯を指す言葉です。煩悩が付きまとっている間は本当の自分が見えず、自分で自分がわかりません
     数珠   (じゅず) 「すうじゅ」と書いて「じゅず」経典のなかに数は「しゅ」もしくは「じゅ」と発音されており他にも無数を「むしゅ」、算数を「さんじゅ」と読むことがあります。108つの煩悩の数といわれるのが数珠のはじまりとされています。
   丈夫   (じょうぶ) 丈夫な子に育つ、大丈夫だぁ〜怪我などしたら誰かが大丈夫?なんて使ってます。如來十号に調御丈夫というのがありますが、これは私たち人間を調えてくれる者という意味をもつ如來の尊号です。丈夫拝という男子がするお拝の仕方がありますが、丈夫とはもともとは人間のこと、特に男子をさす言葉のようです。